自分由来であるということ
昨年の記事ですが。
生きるということ。捨てるということ。過去から未来をつくり出す空間設計ユニット「グランドライン」に聞く、これからを生きるリテラシー | greenz.jp
この1年私を支え続けてくれた文章。
いろんなことにチャレンジして、迷って挫折してまた立ち直って。そのたびに読み返して次に進む。
とくに何度も何度も読み返すのはこの部分。
重要なのは、そのものが“自分に由来しているかどうか”だと思うんです。
モノにしても空間にしても自分に由来していることが一番大事で、その選択を繰り返していくことで自分というものが浮き彫りになっていくんですね。
知らず知らずのうちに自分ではない誰かによって“選ばされたモノや空間”であることって、実はよくあるんです。
自分で選び取る責任を引き受けた上で次の選択をしていかないと、いつかもう一度その選択をしなければいけなくなってしまう、つまり先に進んでいることにならないんです。
物事は結局、やるかやらないかの二択。「やる」と選択するのは大変なことだけど、そこで大変なほうを選ばないと、結局より大変になって自分に帰ってくると思うんです。
私は子どもを産んだ時、なんてきもちわるい世界に来てしまったんだろうと思いました。前にも書いたけど、育児の世界は善悪の基準が自分の外にありそしてそれが多様でなくひとつのトピックにつき正解はひとつ。
たとえば自然分娩・母乳・布おむつやおむつなし育児やたくさんきょうだいをつくり、まわりに友達をつくれる人が善で切開やミルク・紙おむつ・一人っ子・ママ友をつくりたがらない人は怠け者の悪物。
ああふざけんな。
ふつうだったらそんな世界に嫌気がさして、さっさと保育園決めて働きに出て専業主婦業界から撤退するのでしょうし、そういう友人もたくさん見てきました。
私もそうしたかったのですが、この体の弱さがゆるしてくれませんでした。
じゃあそういう常識と戦ってぶっ壊して新しい母親の文化をつくっていってやろうじゃねえかと開き直り、この世界に居座ることを決め、今ここにいます。
専業主婦ほど民主主義から遠い人たちはいないと思う。
ちょっと油断するとすぐ正解(というか正解とその人が思ってる結論)を外からいろんな人がおしつけてきて、それをおかしいと思いづらい世界だから。
憲法守れとか人権を大事にしろとか権力には文句言うのに、目の前の人間の思いは見えないのかい?と突っ込みたくなることがちょくちょくあります。
…まあだからこそ、私の存在価値もあるのかな、と。
なにかを選択するたびに、私は自分に問いかけます。
「その選択は自分のルーツに由来してる?自分の中からでてたもの?誰かにおしつけられたものじゃ、ほんとにない??」
母親仲間と接するときや、先生として親御さんやお子様たちを支援する立場になるときも、忘れてはいけないなと常々自分を戒めます。
「今放った言葉はこの人に寄り添っているだろうか。この人がこの人らしい結論をだすための助けになっているだろうか」と。
ちょっとまえに話題になった山口智子さんのインタビューとともに、きっと一生私を支える言葉たち、かな。
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