宗教は生きるためにある
じゃんがら~からの~四谷にあるイグナチオ教会のミサへ。
戸籍上はなんのつながりもないのだけれど(うちの両親は離婚しているので)3歳までぼちぼちめんどうみてもらったので元父たちの家族葬によばれ、弔った。
もう5年近く会ってなかったし10年くらい前からぼけちゃってたから今更哀しみもなにもないんだけど、それでも人の死というものは生者からごっそりエネルギーをもっていくのだなあと感じる。
だからといって日常を放り投げて休むわけにもいかないから、祈り、ヨガをし、ゆっくりエネルギーを取り戻していく。
久々にミサにきて思う。
宗教とは死を待つひとと遺されたひとの生を支えるためにある。
死にどう向き合うかのノウハウの集積というのだろうか。
それ以上でもそれ以下でもない。
だから政治的に利用したり利益のための道具にしたりしてはいけないのだ。
どんな宗教であっても。
Comments are closed, but trackbacks and pingbacks are open.