わたしがわたしらしく生きるために
ちょっとかわった合宿というか、修行で、春と秋に山にこもって泊まり込みのワークをし、その間は毎日マントラと瞑想とやわらかなヨガのワークに励むみたいな6が月のプログラム。
吉原駒世先生と渡部直子先生とその場に集う人たちが大好きで、剣道と座禅にハマって身体のヨガからちょっと遠ざかっている今だけどこれだけは手放せなかった。
こまよ先生となお先生のつくる場はいつでも安心できる安全な、私にとってはもうひとつのお家みたいなところ。
二人目を産んでもいいかなと思った矢先に授かることが難しくなってしまった自分の身体。その事実を受け入れるのがほんとうにしんどくて、幼稚園のお迎えでお腹の大きいお母さんや小さい子をつれたお母さんをみるたびに涙ぐんではぐっとガマンして笑顔をつくる。
自分の中の感情の嵐はいつか過ぎ去る。わかっているからじっとして耐えるのだけど、自分がすり減っていくのが目に見えてわかってしまって、これはまずいなあとも思う。
そんな日々から逃げたくて、小淵沢に行った。
私が私らしく生きるための「なにか」を手に入れたくて。
なおさんとこまよさんのつくる場で絶対にそれは見つけられるという自信があったから。
子育て支援や文章や写真で世のお母さんたちがゴキゲンに生きるお手伝いをちゃんとするためには、自分を整えねばならんのです。
3泊4日の休日を確保し、自分の仕事に直接つながらないことをするのは子育て中、覚悟はいったけれど。
でもこれは、仕事を超えて人生に必要なことだと自信をもって言えるから。
この4日間泣いてばかりいました。幼稚園でガマンし続けた分の涙と言葉をすべて流したんじゃないかってくらい。
このリトリート中には「種のワーク」というダンス?パントマイム?なんかそんなかんじの踊る瞑想がある。
種になり、育ち、花や木になり土に還るみたいな。
私がイメージしたのは、最初はスイートピー。でも種から発芽したらふわっとぜんぜん花も咲かないようなひょろっとした木のイメージが降ってきた。
地味なんだけど、よく見ると他の植物の枝やきのこや青々としたコケがびっしりと生えている。そんな木。
それが見えたときに、ああそうかと気づいた。
華やかなお花やおいしい実をたくさんつけることだけが植物の正解じゃない。
いろんな植物の宿として、命を育んでいく。
そういう生き方もあるのだ。
一人しか産めません。
幼稚園には3年しか貢献できません。
そういったことになんの恥ずべきことがあるのだろう。
もう一人育てる時間とお金とエネルギーを、文章を紡ぎ、写真を撮り、誰かの子育てを支えていくことにつかえばいい。
私にはその才能がちゃんとあるから、仲間とともに信頼する師のもと、これからの半年をすごしていきます。
私がしなくていいことに納得しあきらめる力を。
そして天から与えられた私の役割を見つけ、全うするために。
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