教え子に手わたしたい未来

教え子に手わたしたい未来私の作品はどこまで私を語るんだろう。
自分の記事を世間にとき放つたび思う。

mizuhuusen

教え子たちが図工の時間につくった作品を見に、地域の造形展に行って来た。
電車のダイヤもはちゃめちゃな中2時間かけてぽくぽくと。

子どもと離れて2年が経つ。

ひとのマネをよしとせず自分の表現をしていた学級の子たちは、より「これが私なんだ!」って声がきこえるものになっていた。

いかにウマいこと言うか考えていた子はよりそのユーモアに磨きをかけ、
人と人をつなぐことが得意だった子は、その中心にある「あい」をモチーフに作品をつくる。
自分のよさをちゃんとつかんでのばしているんだなって、伝わってくる。

そうかと思えば、白黒や勝敗をはっきりつけたがっていた子がいつのまにか世界のしくみとか調和とかに目がむくようになっていることも。「そうきたか!」ってうれしくなる。

2年分の成長が作品につまっている。その事実に胸がいっぱいになった。
会えなくても話さなくても、つくったものはいまのその子を語る。

こういう現場に行くと、教師にもどりたいなと思う。
でも、もう戻らない。

気づいたからね。
いじめも体罰も虐待もベビーカーや子供の泣き声をゆるさない人たちも全部たぶん同じ根っこから出てきていることに。

子どもを学校や園に閉じこめて、社会から締め出したからだよ。

母親と子ども専門の「先生」という職業に、子どもの世話をおしつけた。
成長途上の人を織り込んで社会をつくるのはめんどくさかったから?
それはただの横着だ。

気づいてしまった以上は、やっていかなきゃいけないんだろうな。
「子どもが大人のそばにいるのがあたりまえ」に変えていくことを。
教師じゃそれは難しい。だから、飛び出した。

たとえば親の働くそばで子どもが遊んでいるのがふつうで、必要とあらば面倒を見てくれるひとがいる。
まちのことを決める話し合いで子どもも一緒になって議論している。
大人も子どもも一緒になって遊んだり、イベントを楽しんだりする。
そういう未来がほしい。
そのためにいまの私ができることは?

伝えることかな。

社会にたいして、子どもの姿と教師の智慧を。
もしくは学校に、社会で起こっていることを。

ほしい働き方をやってみることもできるな。

子どもをそばに置いて働いてみる。執筆も、取材も。
就職したい会社に提案してみる。
100社に1社くらいはのってくれる企業はきっとある。

私が教えた子どもたちが社会に出るまで、あと十年。
彼らがより幸せに生きられる社会になってほしい。
私の時代よりも子育てのしやすい環境になってほしい。

久しぶりに子どもたちの断片に触れたら、そんな思いを強く抱いたのでした。